「愛の賛歌」(コリント第一13章)は、「人間の愛かくあるべき」ではない

 北九州市東八幡キリスト教会の奥田知志牧師は、学生時代(関西学院神学部)以来、ホームレスの支援活動を行ってきた。現在、NPO法人北九州ホームレス支援機構の代表も務める奥田師は、毎晩、街に出て、ホームレスの人たちに声をかけ、希望があればアパートに保護し、生活再建の手伝いをしている。これまで700名近くの困窮孤立者を自立させてきたという。その中の一人、竹内さんはこう語る。「ホームレス状態になって一番苦しかったのは、食べられないことでも、眠れないことでもありませんでした。普通に暮らしていた時は、公園を散歩しても、見知らぬ人が声をかけてくれました。『こんにちは』と、何気ない一言が自然に交わされていました。しかし、一旦ホームレスになると誰も声をかけてくれません。自分はここに存在しているのに、まるでいないかのように、自分の前を大勢の人が通り過ぎて行きました。そのことが一番つらかったです」と。「彼らが失ったものは、『ハウス』という家に象徴される物理的、経済的なものだけではない。彼らは『ホーム』と呼べる関係や絆を失っている。この時代、食べ物ならば何とか探し出せる(ただし、それは残飯ではあるが…)。でも彼らにとって、『こんばんは』の一言は容易には見つからない。食事とともにだれかがそれを届けなければならない。『あなたのことを決して忘れてはいない』と告げなくてはならない」と奥田師は言う。
 あるとき奥田師は、新聞記者からこう質問された。「奥田さんがホームレス支援をしておられるキリスト教的な背景には、何があるのですか」と。そして、記者が期待している答えが、いわゆる「キリスト教的な無償の愛」であろうことも想像がついた。「そうです。キリスト教は愛の宗教です。キリストは隣人を愛せよと教えられています。罪のないイエスが私たちのために十字架にかかってくださった。このような無償の愛、自己犠牲の愛こそがキリスト教的愛なのです。マザー・テレサをご覧なさい。自分を顧みず、ただ貧しい人に仕え、与え続けられました。それがクリスチャンというものです。それゆえに、私はホームレス支援を続けているのです…」と言えたなら、「愛の宗教」の面目も立ったであろう。「しかし、私は、決してそんなふうに答えることができない」と奥田師は言う。
 「私たちは、夜の公園や商店街の片隅で寝るおやじさんたちに声をかけて回っている。『大丈夫ですか』、『がんばってください』、『寒いでしょう』、『お体大切に』。いい加減に言っているわけではない。本気で心配し、できるだけ声をかけつつ、夜の街を歩いている。しかし、その数時間後、私は彼らを路上に残したまま、ちゃっかり暖かい部屋へと戻り、子どもたちが眠るベッドにもぐり込む。路上のおやじさんたちが眠れない夜を過ごしているにもかかわらず、何事もなかったように私は眠りにつく。そんな生活を20年以上も続けている。毎度、布団で考える。『私はいったい何をやっているんだろう。』ついさっきまで、いかにも心配げに、いかにも親身なふりをして声をかけていた私が布団に眠る。そこには無償とか犠牲とか言えるもの、すなわちアガペーなどはひとかけらもない。残念ながらそれが正直な私自身なのだ。だから私は、ホームレス支援の現場でアガペーを実践しているのでは決してない。実践するどころか全く逆で、夜間パトロールのたびに、自分がいかにアガペーから程遠い存在であるかを思い知らされている。そしてその時点で、私は『キリスト教的背景』にたどり着く。たどり着かざるを得ないのだ。「神の愛」は、私のような不完全で不徹底な者を赦し、自己本位にしか生きていない私をとりなす。失礼ながら、かのマザー・テレサも(当然私などとは比較にならないほど徹底しておられたが)、神の愛によって、やりきれない自分を赦され、励まされ、そしでそれでもなお、キリストに従う道を歩み続けていたのだと思う。
 『愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません』(コリント第一13:4〜8)。この『愛の賛歌』は、間違っても『人間の愛かくあるべき』と読んではいけない。それは『キリストの愛』を示したものであって、罪ある人間を赦し、なおも使命へと召す『神の愛』を説いたのだ。キリストは、十字架上の無私の姿をもって、無償の愛を示された。私は決して、そんなふうにだれかを愛することはできない。しかし、この愛せない私が、寛容で情け深いキリストの愛によって赦されている。『互いに愛し合う』生き方へと召される。ここにこそ、こんな私たちをなお生かす『愛』がある。『私にとってのキリスト教的背景とはそういうことです』と、その記者の方にはお答えした。記事にはならなかったが、それは今も変わらない私の現実であり、本当のことなのだ」と。[奥田知志『もう、ひとりにさせない』(いのちのことば社)より] 自分の不完全さを認め、神の愛が現われたイエスを救い主として受け入れて歩む、これがクリスチャンなのだ。
御翼2011年6月号その3より

 
  
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